"今日はやけに多いなあ"そうスタッフがため息混じりに呟いた。荷台に50人ほどの難民を乗せたトラックが、私の目の前を通り過ぎる。これで今日2台目だ。
ここは、タンザニアと隣国ブルンディの国境近くのキボンドという小さな町だ。1994年からブルンディ難民の大量発生により、この町は難民キャンプ受け入れ地区と鳴った。今年8月、私はこの難民キャンプの運営にあたっている地元NGOのボランティアスタッフとして、このキボンドを訪れていた。"自分らしい生き方"をしていないという思いが、5月に私を務めていた会社から辞めさせていた。そう思いながらも、一体何が"自分らしい生き方"なのかが自分でもよく解らずにいた。自分のやりたいことは何か、"今"という貴重な時間にしかできないことがしたい。もう一度自分を見つめ直したい。その考えが、学生時代から興味のあったNGOへと向かい、アフリカへと私を誘っていた。
9月まではキャンプも落ち着いていた。表面的には平和的な毎日が過ぎていった。ところが、10月上旬、沈静化していたブルンディ国内情勢が悪化。再び首都付近で、フツ族とツチ族の紛争が勃発し、大量の難民がキボンドへ押し寄せてきた。さらに追いうちをかけるように、10月14日ニエレレ前タンザニア大統領が死去したのだ。ニエレレ氏は、タンザニア国内のみならず、東アフリカ独立運動の父として理想的社会主義国家の建設を強く推し進め、広くその名を知られた人物だ。また、対難民問題に対しては手厚い擁護政策を掲げ、今年2月にもキボンドの難民キャンプを訪問していた。
私は何十人かの難民と話してみた。"十分な食糧がない。着る物が足りない。この状況があなたにわかりますか。毎日何もすることもなく、母国に帰ることもできない。"何もかも捨て、着の身者のままで命からがら逃げてくるしかなかった彼らの口からは、何もかも受身でしか生きていくことのできない無気力な言葉が発せられるのみだった。"あなたは日本人なんだってね。日本はリッチな国だ。この状況を見て、何かをしてくれることを期待していますよ" そういわれ、私は突発的にこう言い返していた。"でも、根本的な問題はキャンプの内側だけではなく、キャンプの外、つまりあなたたちの祖国ブルンディにあるのではないですか?"と。すると、彼らは"確かに問題はキャンプの内側だけではなく、自国ブルンディにあるのかもしれない。でも、今この状況を何とかしなくてはいけないんだ。"と答えた。彼らにとっては、明日をどう生きていくかが最大の問題なのだ。
いつ始まりだったかもわからない部族間の憎しみが、こうしてどうしようもない絶望と脱力を人々に与えている。そこには、メビウスの輪のような魔の循環とブルンディの人々の心を固く締め付ける鎖が、がんじがらめになってほどけないでいる。私は強い憤りと虚しい悲しみを感じた。
カネやモノで解決できないところが沢山ある。互いの文化や言語、価値観の違いから生じる障壁をどう乗り越えていくのか、どう理解しあっていけるのか、そういう視点で物事を考えていくことが本当の意味での国際協力であり国際貢献を考える第一歩なのではないかと私は思う。