“はなれていても、いつもいっしょだ”

梁東輝

貯水池の水位は少しずつだが、確実に上昇していた。浄化施設の工事は数日前に終っており、すでに水門は閉められている。昨日の状況をみると、夜のうちに水は一杯になっていると予想された。最終的に余分な水が越流し、適切に排水されれば、ほぼこの施設自体は完成とみなしてよいだろう。私は今朝、早いうちから出発の準備に追われていた。ビザの期限はあと一週間しか残されていないのだ。ここキボンド・ムテンデリはタンザニアの内陸部でもブルンジの国境近くの西端にあり、交通の便も悪いため、今日中にはなんとしてでも、首都ダルエスサラームへ向けて出発しなければならない。部屋の掃除をし荷物をまとめ、スタッフへの挨拶回りを済ませると、ムワンザの飛行場へ向かうために、迎えに来ていたランドローバーへ乗り込んだ。そして、はやる気持ちを抑えながら、ドライバーに一言、「飛行場へ向かう前にニャビオカ(「蛇のような川」という意味の川の名前。この川は本当に蛇行して流れている)へ行ってくれ。」と告げると、ドライバーは腕時計をチラリと見て、時間を気にしつつも、いやな顔ひとつせずニャビオカへ向かってくれた。

ニャビオカにあるこの浄化施設は、1996年頃から稼動していた取水施設を改良して、浄化機能を持たせたものである。1996年の段階では、ムチンデリキャンプで必要とされる水のすべてをこの取水施設でまかなっていたのだが、この川の水は見るからに濁っており、飲み水としては、水質的に適当ではなかった。その後、UNHCRの指導により、現地でキャンプの運営や水の管理などをしているTCRSが、いくつかの井戸を掘り、現在はその水を生活用水として日常的に難民は利用している。さらに、TCRSは、級的な難民の増加による非常事態の水不足に備え、1998年から浄化施設への改良の工事を始めた。

私は、わかちあいプロジェクトから、TCSに1998年の8月に派遣され、古着配布をするかたわら、この工事に11月から合流していた。わかちあいからおくられた古着は、確実に難民キャンプへ運ばれ、一斉配布にも立ち会うことができた。あと、私に残された仕事はこの浄化施設建設だけであった。

現場ではこれまで一緒に働いたスタッフのアディダスや日雇い労働者の難民たちがいつものように集まっていた。彼らに軽く「マケーイ!(ブルンジ国内の公用語キルンディで「おはよう」の意味)」と挨拶した後、早速貯水池を見に行った。水は流れていた。それも、ほぼ予想したとおりの形で。りょうど越流部からあふれ出している大量の水は、きれいにコンクリート面にそって、本川へとつながる水路へ流れ落ちていた。貯水池の周りは、何度も補修しても止まらない水漏れが相変わらず見られるものの、浄水施設へはパイプを通して、確かに水も通っている。一緒にチェックしたアディダスは「あと数日たてば浄化施設の水も一杯になるから、この水も飲めるようになるよ。」と私に話した。

現場写真をとりながら、これらをすべて確認するうちに、私の目からひとりでに涙があふれてきた。どうしてだろう?特に、悲しいわけでも、嬉しいわけでもないのだが、涙がこぼれ落ちてくるのだ。彼らと議論やけんかしたこと、ポンプ小屋の中で雨宿りしたこと、川の近くで取れたマンゴーを一緒に食べたこと、作っては壊し、試行錯誤しながら、仕事を進めたこと、いろいろなことが思い出されてきた。そして、最後に現場のスタッフや労働者たちにもう一度挨拶をすると、もう涙は止まらず、しゃべることすらできなくなってしまった。あおしてアディダスから「俺たちは、またいつかどこかで必ず会える。はなれていても、いつもいっしょだ」と声をかけてもらうと、私はそれに答えずに、ハンカチで顔を隠すようにして車に乗り込んだ。ドライバーは黙って車を走らせた。私は車窓からタンザニアの見慣れた景色を見ながらまた泣いた。