アウグスタビクトリア病院の歴史
1898年、ドイツ皇帝Wilhelm2世とその妻が、パレスチナを訪問して出会ったマラリアに苦しむ人や巡教者のために建てた病院ですが、第一次世界大 戦の際にはドイツ、トルコの参謀幕僚の総指令部として、また第二次世界大戦時はイギリス軍病院として利用された歴史があります。
1948年、病院とその他施設の責任が、LWF(ルーテル世界連盟)に移され、第一次中東戦争後、国際赤十字がパレスチナ難民のために病院を開始します。1950年、LWFが国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)との協力のもとに運営を開始しました。
LWFは、1950年以来、東エルサレム、ヨルダン川西岸においてパレスチナ人難民を対象にサービスを提供してきました。現在の主な活動として、このアウグスタビクトリア病院の運営、巡回医療、職業訓練センター、盲人のための仕事場、奨学金プログラムが挙げられます。1999年度、直接的にLWFのサービスを受けた人数は、35,000人にのぼります。
1999年度支援 看護師ボランティア金子純枝氏のレポート
金子氏のレポート①(1998.12) -アウグスタビクトリア病院を訪問して- | |
私は、10月1日から10日まで約1週間という短い期間ではあったが、エルサレムの地を訪問することができた。イスラエルは初めてで不安をともなったが、空港ではマリアポールさんというLWFの事務所に勤めている方が迎えに来てくれていた。 到着したのが週末だったために病院見学は月曜日からということになった。旧市街は私が想像していた以上に発展していて、びっく りした。統一された石灰石の建物、道は石畳で迷路のようになり、知っている人がいなければ、1人で歩くには勇気がいるところである。ルーテル教会も町の真 ん中あたりにあり、とても大きい。学校にいってなくてはいけない年齢の子供達が親を手伝って出店を出しているのが印象的だった。 10月5日は病院の見学に対し、ドクターのチーフの方々に挨拶し、日本で言えば事務局長さんに病院内を案内していただいた。1日の外来患者数は70名から 80名、病棟は内科、外科、小児科である。産婦人科がないのに不思議に思い質問すると、以前はあったがコストが高いので閉鎖したとのことである。ICUベット数5床から7床、透析のためのベット数は6床ある。心電図や透析の機械は新しいものが取り入れられていた。 10月6日はビレッジクリニック(村の巡回医療)に同行することができた。エルサレムから車で約2時間、途中の町でドクター2名とナース2名が加わる。2ヶ所の診療所があり、ドクター1名と看護婦1名がはじめに降りる。小学校のとなりにある小さな診療所に到着する。診療室と処置室2部屋と小さな検査室と薬剤室のみである。1日の患者数の平均は30名、土埃が多いためか気管支系や肺患者が多く成人病も増えているとのことである。母親が10代で結婚し、子供を授かるので母親への保健衛生指導が重要になってくる。子供達の成長カルテもきちんと記録をとっていた。 隣が小学校で午後1時ごろに私たちが引き上げる時間と下校の時間が同じらしく、子どもたちはアジア人の私が珍しいらしく、たくさん集まってくる。子どもたちのきらきら光る目が印象に残る。 私になにができるだろうかと考える前に、みんな神様に愛される人々であることを思い、とぼしいものであるが、共に生活し、交流していくことができればと思っている。 |
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金子氏のレポート②(1999.12) -外来病棟から内科病棟へ- | |
4月28日以来、外科病棟での奉仕でしたが、8月からは内科病棟に代わりました。その間に、6月から2ヶ月間、実習生としてきていたベツレヘム大学の3年生タウラットさん(21歳)とはとても仲良くなりました。パレスチナでは、看護学生(スタッフナースになるコース)はすべて英語で勉強するので、彼女もとても流暢な英語を話しており、時々難しい医療英語を使うので、私には理解できなかったりして大変なときもありました。それでも、実習も後半になると、お互いの住所を教え合うまで親しくなり、私が日本で撮ったプリクラを貼って渡すとびっくりしていました。彼女はとてもシャイです。準夜のスタッフが男性2名だけということがあったときに、交替時間は午後3時30分ですが、彼女は実習生として午後6時までの勤務のため、彼女と男性スタッフ2名だけになってしまうのが嫌で、6時まで一緒にいてほしいと頼まれて付き合ったこともありました。外科病棟勤務の最終日、婦長のMs.ハナンが私と実習生のタウラットさんのためにお疲れさまパーティを開いてくれました。お菓子やケーキ、ジュースなどを用意してくれたのにはとても感激でした。8月2日から内科病棟の働きがスタートし、ここでの勤務は9月下旬までの2ヶ月間で、10月に入ると、日本へ一時帰国することにしています。LWFの長期ボランティアは3ヶ月働くと、一週間の休暇をもらえることになっているのです。 内科病棟のスタッフは、内科看護婦6名、看護士5名の計11名。男性スタッフナース(ボランティア)2名(内1名は週2回勤務)、看護士長のジョニー氏、主任のイエッドさん。ベッド病床17床。主に、心臓疾患・気管系疾患・脳血管障害などの患者さんが多く、外科病棟と比べると その年齢はぐっと高いようです。急変した患者さんはICUに転棟させます。脳血管障害の患者さんは、体の片側に麻痺が残っても2~3週間で退院しています。日本では通常リハビリテーションに時間をかけますが、ここでは、リハビリテーション室もなく、理学療法士もいません。パレスチナ側(ガザ除く)には小さなクリニックが3つあり、そこではリハビリテーションを行っているようですが、人口の割合にはあまりにも少ない設備だと思います。家族の負担も大きいし、残存機能を十分に引き出せずに、自宅に戻る患者さんもかわいそうなのですが、病院の数も足りない状況の中では仕方がないのでしょう。 こちらの働きに慣れてくるに従い、今まであまり気が付かなかったところが見えてきます。パレスチナ側のエルサレムの中の病院と しては、かなりきれいだと言われていますが、看護レベルは決して良いとは言えない状況です。日本では、まず患者さん一人一人に合った看護計画を立てますが、そういう用紙すらないのです。プライマリーヘルスケアには程遠く、機能別看護をするのがやっとという感じです。 日本も戦後から今の状態になるまでに長い時間をかけてきたように、パレスチナにも長い時間が必要なのだと思っています。 |
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金子氏のレポート③(2000.6) -1年間を振り返って- | |
やはり言葉の壁をやぶることはできませんでしたが、それでも自分なりにどんなことを感じたかを書きたいと思います。1年前までのパレスチナに対する私のイメージは、テロがあり、インティファーダ(一念発起と訳され、パレスチナの居住区に侵入したユダヤ人に集団で石を投げ、時には殺しあうこともあったが、1994年以降は起きていない。)がある所、そしてイスラエルと常に問題がある危険な場所という感じでした。 パレスチナの人々は避難民になってから4世代になっている人々もたくさんいます。パレスチナ人もイスラエル人も一般市民は誰一人として、平和を願わない人はいません。パレスチナの人々の中にもいろいろな方がいて、比較的高学歴の方々は物事の様々な考え方の視野が広い気がしました。どんな世界でも強者弱者があるのでしょうが、今のパレスチナ・イスラエルをみる時、顕著にこの関係が成り立っている気がしてなりません。エルサレム市内を歩く時、必ず、イスラエル兵の姿を目にします。確かに、このイスラエル兵がいるからこそ治安が保たれているという意見もあります。あまりにもこの状態に慣れすぎてしまったのかもしれませんが、やはり異常事態といわなければならないでしょう。 このようなことをはじめとして、いろいろな面で強者=イスラエル、弱者=パレスチナという不平等を感じずにいられませんでした。神の目から見れば、みんな同じ人間なのです。理想化しすぎているかもしれませんが、必ずお互いの差異をみとめて共生していける日がくると信じています。それは、パレスチナ・イスラエルの若者たちが、政治・宗教・民族の違いを越えて、お互いを愛と思いやりをもって受け入れ合うことに関わってくるのです。パレスチナ・イスラエル側ともに、そうした考え方を持った人々が少しずつではありますが増えてきていることは確かです。パレスチナとイスラエルの和平の実現される日の1日も早いことを願わないではいられません。 そしてまた、パレスチナとイスラエルの問題は、遠く離れた日本のクリスチャンの私たちひとりひとりにも、信仰とは何か、イエス様が望んでおられるクリスチャンのあり方とは何かを常に問いかけているのではないでしょうか。 帰国に際して、LWFの総責任者Mr.キプルスをはじめ、病院のスタッフの方々から、日本へ帰国する日に、今までほんとうにパレスチナの人々のために働いてくれてどうもありがとう。また、パレスチナに来る機会があったら、ぜひ病院を訪ねてほしい。そして、自分たちのことを忘れないでほしいと言って頂き、小さな、足りないご奉仕ではありましたが、この1年間頑張ってきて本当に良かったと思いました。 イスラエルからの出国は、とても大変でした。私はパレスチナ側で奉仕していたため、覚悟はしていましたが、別室のセキュリティ・チェックで荷物の中身を全部取り出して調べられました。でも、飛行機の出発時間にはきちんと間に合い搭乗することができ、乗り継ぎのタイのバンコクでは10時間の市内観光も許され、4月15日、無事に日本に帰国しました。 |
2000年度支援 ボランティア松木寛子氏のレポート
AUGUSTA VICTORIA HOSPITALの歴史 |
1898年ドイツ皇帝Wilhelm2世とその妻がパレスチナを訪れた際マラリアに苦しむ人や巡礼者のためオリーブ山に病院を作ることになった。その後第1次世界大戦にはドイツ、トルコが参謀幕僚の総司令部として、また第2次世界大戦時はイギリスが軍病院として使用した。1948年病院その他施設の責任がルーテル世界連盟(LWF)に移される。第1次中東戦争後国際赤十字がパレスチナ難民のため病院を開始する。1950年ルーテル世界連盟が国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)との協力のもとに運営を開始する。 |
Witness Through Service |
LWFは1950年以来東エルサレム、ヨルダン川西岸においてパレスチナ人難民を対象にサービスを提供してきた。現在の主な活動として、AUGUSTA VICTORIA病院、巡回医療(Village Health Clinics)、職業訓練センター、目の見えない人のための仕事場、奨学金プログラムが挙げられる。1999年度、直接的にLWFのサービスを受けた人数は35000人にのぼる。これらの活動は世界各国の教会やキリスト教団体のサポートのもとに成り立っている。 |
私が見た範囲での病院内 |
1階は主に外来患者のために使われている。1日に50~60人ほどの外来患者を診察するそう。その他にERがあり24間患者を受け入れる態勢は整っている。2階は外科病棟で、ベット数は60、集中治療のための部屋が1つある。3階は内科病棟、ここではdaycare service (入院はせずに丸一日病院で治療を受けたりするらしい)が行われる。また透析のための設備も完備されている。私が見学した時は子供からお年寄りまで8人くらいが1つのある程度広いスペースで透析を受けていた。1日4時間程かかり、週に3回通わなければならないそうだ。その他に3階には新生児のための部屋が3つある。 病院内には中庭があり日が差し込み、明るい雰囲気がする。またクラシカルで荘厳なドイツ風建築はすばらしく、ホテルにいるような錯角に陥りそうだ。特に慌ただしい様子はなく、病院のわりには静かだと感じた。 |
巡回医療 Shuqba村へ |
西岸にある5つの村にクリニックが設けてあり1日につき医師1名、看護婦2名、臨床検査技師1名で1つの村を訪れる。週6日行われる。 8月14日、5つの村のひとつShuqba村に連れていってもらった。エルサレムから車で1時間半。そのうち半分はオリーブの木などしかない荒れ野のような山々の中を走る。ぽつりと集落があるくらいであまり車も通らない。乗り合いタクシーくらいしか交通手段はなさそうだ。 村のクリニックは外から見るとコンクリートでできた少し大きな小屋という感じだが、中は狭いながら壁は白くきれいに塗ってあり清潔そうだ。医師の診察室、受け付け兼薬局のような部屋、看護婦の処置室、検査室がそれぞれ1つずつある。薬は棚に並べてあり半分程はパレスチナ当局からのだそう。LWFのチームが行かない日はパレスチナ当局からの医療スタッフが来るそうだ。 9時半くらいに到着したときから少しずつ人が集まってくる。ほとんどは女性だ。町とは違い、女性は例外なく皆ベールをかぶっている。この日は妊娠の検査にくる人、風邪をひいた人、赤ちゃんの検診のくる人が多いようだった。赤ちゃんの身体測定等の記録はファイルにしてとっていた。 この辺りでは高校までしかなく、それでもそこまでも行かず12歳くらいで学校をやめる子供もいるそう。大学へ行く人はほとんどいないということだ。また女の子は15、6歳という若さで結婚することもありクリニックでは保健などのついて教える。 お昼頃に閉めるまでひっきりなし患者さんはやってきた。そう簡単に町まで移動することができないこのような村では小さなクリニックでもどんなに村の人々には貴重なものか、帰り道、日がカンカンに照りつける荒涼とした山々を走り抜けながら少し実感できた。 |
私の活動 |
私は病院の敷地内でのゴミ拾い、庭掃除、水やりや、病院のキッチンでの掃除、LWFオフィス周辺の掃除、ハウスのペンキ塗りなどした。 私が来たばかりの頃はちょうどオランダからボランティアのグループがいて同じようにペンキ塗をしていた。他にも病院の隣の教会で働くボランティアなどもいる。このようにAUGUSTA VICTORIAは常に世界各国(主にドイツなど)からボランティアを受け入れている。敷地内にはいくつかハウスがありボランティアのほかにも学生や観光客、NGOのスタッフなどが宿泊できるように整備されている。 私は主に病院の庭師であるパレスチナ人(オマル)と一緒に働いた。彼は毎年夏に来るボランティアの若者のお世話をしていてその延長のような感じで私は彼にくっついて働いた。 病院の中はきれいなのだが、外はごみだらけで毎日仕事は尽きなかった。特に、病院だというのにたばこの吸い殻の量はひどかった。ゴム手袋やプラスチックの注射器などたまに見つけることもありぎょっとした。 |
オマルの家族と |
午後は自由なので1人で町を歩き回っていたが、何回かベタニアにあるオマルの家に行く機会があった。ベタニアはエルサレムから車で20分くらいの所にある。パレスチナ自治区の1つで、行政権はパレスチナにあるが治安はイスラエルが管理するという地区だ。 オマルには5歳から14歳までの5人の息子がいてみなそれぞれイスラム系の私立の学校に通っている。1人につき1年に50NIS 払う。(オマルの月収約1600NIS、平均月収2000NIS、500ドル)パレスチナ当局が運営する公立学校もあるがあまりよくないそう。オマルはイスラエルの占領のせいだ、と言う。私立の学校では1年生から英語を習う。 オマルの姪達は東エルサレムにあるアラブの大学に通っている。ここでの授業はほとんど英語で行われ、教科書も英語のものだそう。大学に行くのは難しくはないが、お金がかかる。コンピュータの授業は1時間に40ドル、歯医者になるための授業では1時間150ドルかかるということだ。 アラブの男性は女性を軽視する傾向にあると思われがちで、確かに葬式に女性は出れないなどとオマルは言ってたが、オマルの家では妻のアッハランにだけ家事を押し付けるのではなく家族で協力して家の事をしている。それは普通の事なのか、と聞いたら、特に不思議なことではないようだった。 オマルの姪達もみな卒業後は外で働きたいと言っていた。ベールはかぶっているけど私とそんなに違いはなく、とても身近に感じられてとても楽しい時間が過ごせた。 ちょうど9月が迫っていたので、13日に独立を宣言すると思うか、と聞いてみたら、その時点でみんなNOと答えた。”独立国家ができるのはだいぶ先だろう。アメリカ次第だ。”と言っていた。そんな簡単なことではないと思ってるようだった。 またエルサレムについても聞いてみたところ、みな当然に東はパレスチナの首都だと思ってた。モスクも、学校もあるのだから、なくては困る、というのは実際問題その通りだ。東はほとんどパレスチナ人しかいないわけでそれをイスラエルがすべてエルサレムは自分達のものだと言うのは無茶苦茶だ、と行ってみて実感できた。オマルも”東京が日本と中国に分かれたらどう思う”なんて言っていた。 |