独立後、人々は自立への道を歩み始めましたが、戦争の後遺症は厳しく、職業訓練校では1950年代の機械をいまだに使用している状態でした。
わかちあいプロジェクトでは、エリトリア日本大使および現名城大学講師であるエリトリア人アブラハ・ペテロス氏からの呼びかけで、首都アスマラの南東の都 市デカムハレにある職業訓練校でのコンピュータ訓練コース開設を全面的にバックアップすることにし、1997年3月、支援を開始しました。
この職業訓練校では、約1000名の生徒が寮生活を送っています。彼らは、戦争で片親や両親を失った孤児たちです。身寄りのない彼らにとって、自立して生 き延びていくためには、就職に有利な技術を身に付け職業を得ることが何より重要であるという考えから、エリトリア政府の教育省との協力でコンピュータ訓練 コースの開設が進められました。
また、エリトリアは、他のアフリカ諸国と比べると、意外にコンピュータの普及率が高く、政府のほとんどのオフィスにはコンピュータが導入されていますが、 その割にコンピュータ技術者が絶対的に不足しています。首都アスマラには多くのコンピュータスクールがありますが、そのほとんどがワープロと表計算の初歩 を教えるだけで、技術者育成には不十分です。
私たちのプロジェクトでは、2年間毎日授業を受け、コンピュータの基本からメンテナンス、プログラミング技術までを習得し、卒業時にはエリトリアでトップクラスの知識を得ることが期待されます。
これまでの支援の流れ
1997年3月 | コンピュータコース教室改修費用として10,000ドル寄付 |
5月 | 中古コンピュータ50台、プリンタ13台、スキャナ1台、テレビ1台、変圧器3台、紙5万枚などを日本からコンテナ輸送。 |
7月 | コンピュータ訓練コース講師としてボランティア岡安智生氏を派遣。 現地にて開校準備開始。 |
10月 | コンピュータ訓練コース開校。 岡安氏が、テキスト作成から指導までの一切を受け持ち、半年間、毎日4クラスを教えた。 |
1998年3月 | 岡安氏、日本帰国。 現地講師が後を引き継ぎ、コースは継続されている。 |
1999年3月 | 岡安氏作成の上級編テキストと故障を直すためのコンピュータ部品を日本より輸送。 |
現在は、エリトリア政府教育省の管理のもとで運営されている。 |
コンピューター講師ボランティア岡安氏のレポート
出発前レポート(1997.5) -自分にとっての国際協力とは- |
国際協力とは何なのか。 国際協力をしたいと思うようになってから、常にそれがつきまとってきました。「俺弱い立場の人たちに上からなにか施すみたいにするのは嫌いなんだよ」「たとえば、国際協力が多くの人々を救ったとする、環境保護が、多くの自然を守ったとする。それらによって、結果的に人口が増えて、さらに困難なことになってるんじゃないか?」「どんなに頑張ったとしても、今資本主義世界の潮流は変わらないだろ。今先進国の多くの人々が危機をそれほど感じていないなら、今なにをやっても埋もれてしまうんでは?」 そういえば、なぜ、僕がボランティアを始めるようになったのか—以前、その日の一分、一秒が耐え切れないくらい、うちひしがれてたことがありました。長くそれが続いていたある日、テレビでカンボジアの内戦の番組が流れていたのを眺めていました。目の前で、自分の息子が頭を打抜かれた母親が、張り裂けんばかりにないていました。衝撃でした。なんということだろうか!これにくらべて自分の悲しみなんて、なんて軽いものなのか…あの母親はどれほど悲しいんだろうか!そんなことがあっていいのだろうか。今自分では、この一分が耐えるのに長すぎるとまで思っているのにあの母親はどれほど悲しいんだろうか。 ボランティア活動をやってきて、これを再認識したのは最近で、あらためて国際協力に対する自分の姿勢を考えるようになりました。国際協力は、大義名分などではなく、思いやりのような「心」に支えられるべきものだ、と思うに至っています。 エリトリアへの心境 大学に入ってある程度時間がたってくると、それまでただ勉強のみに励んできた自分の存在意義のようなものに疑問を持ち始めていました。そこにおいて、「悲しみを少しでも減らしたい。」と思うことは、国際協力への動機以外に、自分の存在を確かめたいという現棒を含んでいた、と今になって思います。エリトリアの支援プロジェクトは、すばらしいことだと思います。ただの資金援助とか、開発のための物の援助というのは、時に自立の障害になりえたりしますが、特にいまから復興していこうとする意気にあふれたエリトリアに対しては、自立支援という形の、人の養成は最も有意義でしょう。 ただボランティア、という観点だけで考えると、自分が講師としてエリトリアに行く意味がいまいちつかめない。講師は現地で雇用できるわけだし、自分には言葉のハンデもある。いままでは、「若いから」「学生だから」「バイトだから」「スタディツアーだから」などのかくれみのや逃げ場が沢山ありました。今回のことは、それらがまったくない。ボランティアだから、というのあh理由にならない。そのような場所に自分を投げ込めるという機会として、それは自分にとって有意義で、やってみたい、成し遂げてみたいと思います。 |
現地からのレポート①(1997.7.11) -エリトリア手記- |
「なんてアフリカは遠いんだ!」 というのは、僕に限らずここへ来たすべての人の感想だと思う。「あまりに遠いから、すぐには帰りたくなくなるのよ」と、ある日本人が言ってた。同感。 僕の場合は、途中一度も空港から出ず、55時間の長旅を経てエリトリア空港に到着した。足掛け3日。まいった。特に、途中ナイロビ空港では昼の2時に到着して翌日朝8時に出発というスケジュールで、18時間空港のなかでうだうだとしなければならなかった。あれは長い1日だった。 それでじゃあどんななのかというと、あくまで首都アスマラに限ってのことだが、ここにいてここが貧しい国だと感じさせることはあまりない。街の中心部は、先進国の都市とは比べてはいけないが、なかなか栄えている。暇している子供、学生がうろうろしてウインドウショッピングしてたりする。カフェには人がわらわらと集まって歓談している。アスマラは小さいので、人々はちょっと歩くと知り合いに会い、握手をし、でまたちょっと歩くと知り合いに出会い、というふうに、それが街のいたるところで繰り広げられていて、なかなかいい感じだ。ほのぼのしている。日本くらい大きくなってしまうとこれは無理な話だ。 そう、書き忘れていたが、あと一つこの国のいいところ。それは、めちゃ治安がいいこと。夜11時、12時でも出歩いて平気というのがすごい。女の人でもOKということらしい。これは人々の全体的な士気の高さを端的に表しているとおもう。アフリカの希望の星といわれるのは伊達じゃない。それが落ちてしまわないためにも、この国には頑張って欲しいと願うばかりだ。 |
現地からのレポート②(1997.12) -厳しさの中で自由を楽しむエリトリア- |
エリトリアは世界の最貧国の一つに数えられ、都市部の失業率90%、生まれてからまったく教育を受けたことがない人が、国民の80%にのぼる、日本人の感覚からは考えられないような厳しさの中にある。家族は総出で生活費を稼がなければならなく、小学生でも、働くのは当然。三食食べるのも厳しい、という状態 で普通くらいだ。 そして驚かされるのは、この状況にあって、治安が驚くほどいいこと。4ヶ月住んでみて、日本よりも安全という感じがする。独立を自らの手で勝ち取ったという誇りがそうさせるのだろう。なにしろ、今世紀占領されてなかった時がほとんどなかったという国である。街中いたるところに、”Free Eritrea!”のペインティングが施され、祭りになると、子供から、スーツを着た紳士風の人から、おじいさんまで、「今、俺メチャメチャたのしいぜー!」って踊っているのは、見ていて微笑ましいかぎり。みんな、自由というものを初めて実感して、それがこれほど素晴らしいものだとは!という気持ちでいるんだ、と聞かされた。これもまた、聞いた時には衝撃だった。自由なんて当たり前すぎて、それを感じたことなんてあっただろうか?とにかく、こちらにきてこんなことばかり。カルチャーショックが絶えない。 ところで、コンピューター教室があるデカムハレは、1本の舗装された道路の周りに家が群がる程度の小さな村だが、これでもエリトリアでは5本の指に入る都市。首都アスマラから車なら、戦争で完全に森を失った、赤茶けた山々を見ながら40分ほどのドライブで着く。その町の入り口すぐの所に学校がある。ここには孤児1000人が共同生活をしている。8つの民族が一緒にいるので、外見もバラエティーに富む。ちなみに、多民族、多宗教が一丸で独立を達成したというのも、世界で希に見る、また、エリトリアを象徴する出来事だ。 今学校が始まって3週間ほどになり、初日、あまりの生徒のできなさにどうなることかと思った授業も、だいぶ軌道に乗ってきた。生徒は高校生だが、ゲリラ活動をしてたせいで学年が遅れていて、皆20歳を越えている。生徒達のごっつい顔には最初圧倒されたが、今は慣れた。1000人の中から、レギュラースクールの英語の点数で選ばれた80人を対象にしているので、できる生徒が多く、楽といえば楽。基本的に、皆やる気がある。授業の後、「残って練習していっていいですか?」といわれることもしばしば。嬉しい限りだ。今の悩みは、できる生徒とそうでない生徒の格差が広がりつづけていて、どうすべきなのか決めかねていること。 生徒達は、元EPLFの兵士で、政府からは非常に信頼されている。そのため、政府は彼らを軍隊に欲しがる。もとゲリラ兵だけに、恐れる事がなく、軍人として適任と考えられているのだ。仕事が見つからなかったら、彼らは軍隊に入るほかない。しかし、彼らは普通の生活がしたいとのこと。戦争で苦渋をなめ、肉親を失ったのだから、当然のことだろう。そのために、このコンピュータスクールは彼らに、オフィスワークができるかもしれないという希望を与えている。僕としても毎日彼らと顔を突き合わせているだけに、情がうつって、ただでさえ不利な立場にいて、かつ辛い立場にいる彼らには、幸せになって欲しいと願う。その手助けができるチャンスが今自分にある事が、また励みになる。このような状況です。また、職業訓練校の支援プロジェクトはこれで終わった訳ではなく、まだいろいろなプランがあるものの、ただ資金不足のため、ことが進まないという次第です。エリトリアの若者達のため、みなさんのご支援が必要です。今後とも、よろしくお願い致します。 |