1996年から山岳民支援のためコーヒープロジェクトを進めてきました。
機械類の支援に始まり、1トン~5トンのコーヒーを日本に輸入し、2001年5月にはチェンマイにコーヒーショップを開店してマーケットの確保に協力してきました。
その結果、2002年はコーヒー生産組合は18トンの生産とマーケットを確保、2003年は40トンに成長しました。2003年1月にはシアトルからスターバックスの撮影クルーが山岳民の取材に訪問、スターバックスも山岳民のコーヒーを購入する予定です。
スターバックス、タイのコーヒー発売(2008.4)
タイコーヒーの販売実績>
1997 1,000kg
1998 8,000kg
1999 3,296kg
2000 7,015kg
2001 7,356kg
2002 18,516kg
2003 39,218kg
2004 55,591kg
2005 60,380kg
2006 73,798kg
2007 114,661kg
Total 379,830kg
2007年1月現在、組合のメンバーは200人に増え、2008年は、20の村から150トンが集荷される予定です。
ラナカフェプロジェクト
1998年から2000年にかけて、わかちあいプロジェクトはタイコーヒー生産者組合から12.3トン、さらにチェンマイ大学アラビカコーヒー研究センターから4トン、計16.3トンの生豆を輸入するに至りました。
しかしながら、タイコーヒーの知名度がないため、日本でマーケットを確保するのは困難で、2001年、生産者組合から購入し続けることが難しくなりました。
そこで、わかちあいプロジェクトは日本ではなく、タイでなんとかマーケットを開拓することができないかと、タイ山岳民族栽培コーヒー販売促進プロジェクトをタイで展開するに至りました。その際立ち上げた組織が、Lanna Cafe です。Lanna Cafeに任された使命は、2トンのコーヒー豆の市場をタイ国内で開拓することでした。(2007年は、7トンのコーヒーを販売する予定です。)
Lanna Cafe移転、新しくオープンしました(2009.9.15)
https://www.wakachiai.com/self_reliance_news/20090829/
タイのフェアトレードコーヒー10年の取り組みについて
わかちあいプロジェクト代表 松木傑
出会いからはじまった、タイ山岳の村でのフェアトレード
1989年11月私は、当時働いていました日本キリスト教協議会国際協力担当幹事として、タイとインドのスタディーツアーを企画して、9名の参加者がバンコック、チェンマイ、カルカッタ、マドラスの四都市を訪問しました。チェンマイでは、大学の先生や牧師たちと懇談会を持ちました。村の教会の課題は何ですか、という問いかけに対して神学校の先生が、教会員が娘を売るということである、と言われたのを忘れることができません。タイの山岳地の少数民族は、貧困のために娘を売るということは聞いていましたが、教会の中まで広まっているとは思ってもみませんでした。
その後、チェンマイから北西70キロ山岳に入ったカレン族のボウゲオ村で一泊しました。夕方、民家の高床の部屋で夕礼拝がもたれ参加しました。村人はすべてバプテスト教会員でその熱心さに感銘を受けました。翌朝目覚めて近くを散歩しましたところ、コーヒーを乾燥させているのを見て、「こんなところでコーヒーを作っているのだ」と思いました。
1993年春から、メキシコのコーヒー、カフェマムの販売を始めました。まさか、自分がコーヒーを取り扱うなど考えてもみませんでした。以前、カレンの村で見たコーヒーのことを思い出し、貧困のために娘を売るという状況に、何か出来ないか、コーヒーをフェアな値段で買うことによって貢献できないかと考えるようになり、1996年11月、チェンマイのパヤップ大学の知り合いに連絡しました。そしてコーヒーに詳しい人として紹介されたのが、アメリカ人宣教師のリチャード・マンさんでした。なんと、彼は私が以前訪問したボウゲオ村で麻薬患者の更生施設を運営するかたわら、同じ敷地でコーヒー栽培を行なっていました。マンさんは、心強いパートナーとして、タイ山岳民コーヒー組合の設立に取組んでくださいました。アメリカのバプテスト教会から派遣された農業専門の宣教師で、数年前に引退され、現在は、同じ農業開発を専攻する息子のマイク・マンさんが、その働きを担っています。
1997年4月最初のタイのコーヒーの生豆1トンが届きました。マンさんの農場から400キロとチェンマイ大学の農園からの600キロです。国連がタイの麻薬栽培に代わる換金作物として、コーヒーを導入するために、コーヒーセンターを設置し、その働きを大学が引き継いでコーヒー園を運営していました。その後3年購入し、8トンまで購入した時点で、私の教会の倉庫に在庫が一杯の状態になってしまいました。タイのコーヒーは、日本でほとんど知られていません、私たちの売る力は限られています。切羽詰ってしまいました。
日本で駄目なら、チェンマイで売ろう
コーヒー・ショップをチェンマイではじめる準備に取り掛かりかりました。2001年1月、わかちあいプロジェクトのスタッフ1名(中島佳織さん、写真左)とボランティア1名(村山恵理さん、写真右)、それに私の3名で小型のコーヒー焙煎機、コーヒーグラインダー、コーヒーのパッケージ袋、シーラーなどもてるだけの機械類と材料をもって入国しました。事前にタイの英字新聞に求人広告を掲載し、履歴書をメールで送ってもらった3名の方とチェンマイのYMCAで面接して、1名をコーヒー・ショップ、「ラナカフェ」のマネージャーとして採用しました。二人は全然、タイ語が出来ません。最初の仕事は、店を出す物件探しです。日本人2名は、採用したマネージャーの自宅に寝泊りして準備にあたりました。すべてゼロからの出発でしたが、5月には開店にこぎつけ、いまも同じ場所で営業しています。毎年、赤字が続き、マネージャーも 3人交代し、人間関係のゴタゴタのため、私が日本から出かけて解雇を告げなくてはならないこともありましたが、昨年から収支がバランスするようになり、年間7トンのコーヒーをお店と卸で販売しています。タイでも段々、コーヒーを飲む習慣が広がり、コーヒー・ショップができてきていますが、「ラナカフェ」は先駆的な役割をチェンマイで果たしています。チェンマイの空港でも私たちの焙煎コーヒーが販売されています。1998年にはタイ山岳民コーヒー組合は、フェアトレード・コーヒー生産者として登録され、世界各地から引き合いがあるようになり、2007年11月現在、組合のメンバーは16グループで280人に増え、30の村から150トンが集荷されるまでに成長しました。私たちは、「教会のコーヒー」という名前で販売しています。また、スーパーのイオンでも、同じタイのコーヒーを販売しています。スターバックスも今年はタイの豆を本格的に販売開始するそうです。山岳民の方たちの収入を増やすことに貢献してきたと思いますが、まだその役割についてはまだ検証できていません。10年を経てその時期ではないかと考えています。村人が娘を売るという状況が少しでも改善されているでしょうか。
検証のための訪問
2007年11月26日から30日まで、久しぶりにタイを訪問し、2号店の開店式とラフー族のパカ村とカレン族にソンポイ村を訪問し、コーヒーの役割と村の状況、それに、娘を売るということが、現在でも続いているか質問しました。パカ村のラオサンさんは、夫婦と子供2人の4人家族ですが、100%ちかく収入はコーヒーに頼っています。マカデミアナッツもいくらか栽培されていますが、国立公園内に村が位置しており、農地を広げることができません。農地18ライ(1ライ=1600m2)で6年前からコーヒー栽培をはじめ、パーチメント付で1000Kg、40万円の収入になり、子供も小さいので収入は十分だとのことです。他の村人の話では、自費で子供たちを高校にやった人はいないということで、コーヒーだけの収入では限界があるように思いました。パカ村は高度が1040m、ソンポイ村は1140mでパカ村ではコーヒーが熟していましたが、ソンポン村は高度が高いだけ寒く、まだ熟していませんでした。ネーさん、47歳は娘3人と奥さんの5人家族です。村は国立公園の中にありますが、歴史が古く100年以前に入植したとのことで、土地が比較的恵まれ、米、高原野菜、コーヒーの3品がバランスよく栽培でき、奨学金で娘一人が教育受けたが、他の2人は自力で看護学校と大学に行かせることができたそうです。村でのコーヒー栽培の歴史は、1985年に国連によりコーヒー栽培が奨励され開始され、1995年にマーケットが無くて切り倒したが、2003年、タイ山岳民コーヒー組合に加盟してコーヒー栽培を再開したそうです。昨年11月、組合を通して、スターバックス・タイから支援を受けて、貯水タンクを設置し、来年は診療所の建設と医師派遣が予定されています。
両村ともテレビ、バイク、小型トラックなどがそろっており、ゆったりした村での生活は安定しているように思いました。組合活動は、16グループの代表が年3回集まり、お互いにコーヒー栽培の情報を交換し、自ら話し合って、コーヒーの取引条件を決めるなど自立的な働きを行なっています。今年の組合員への支払は、1キロあたり105バーツ(1バーツ、3.6円=378円)で、国際相場より大変高くなっています。タイ国内でのコーヒーの需要が高まっていることと、海外からのコーヒー豆の輸入にたいして90%の関税を課して国内のコーヒー生産者を保護しているためです。タイ山岳地でのアラビカコーヒーの栽培量は約800トンで、そのうち組合では2008年に200トンの集荷を計画しています。コーヒーの取り扱いを始めて10年、村の現場で働いてきたブンラットさんに、村人が娘を売るということについて質問しました。コーヒー組合の16グループ、30の村では、もともと娘を売るということはなかったが、近隣の村では、そのようなことが少しはあるようだ、しかし、それは両親が娘を売るというのではなく、娘たちが村での生活を捨てて都会に出て行った結果起こっている、これが彼の答えでした。
タイ山岳民のコーヒー需要拡大、生産をうわまわる!(2002.3.29)
1997年から山岳民の生活向上のためコーヒーのマーケティングを支援してきましたが、長年にわたり現地でコーヒー栽培を奨励したマンさん(アメリカ人農業指導宣教師)より、以下のような嬉しいメールが届きました。皆様のお支えを感謝いたします。
Dear Suguru:
The coffee is selling well with a good price. We received an order for 5 tons from France. Most is being sold within Thailand.The demand is now exceeding the supply. We had a total order for 25 tons.
Suguru, I would like to take this opportunity to thank you and the Wakachiai Project for all the help you have given in getting the Thai Tribal Arabica Coffee Production and Maketing Cooperative started.
Without your initial and continuing financial support through the first years, the present success of the Project could never have been achieved. The tribal coffee growers and I, as well as the Project staff are most grateful.
Your friend;
Dick
2001年タイコーヒープロジェクト報告(2002.3.30) -村上恵理-
プロジェクトの目的 | |
コーヒーの栽培、生産および世界市場とつながるシステムを持たないタイの山岳民コーヒー農民のために、システム作りに協力し、生産者と顔の見える産直方式で市場を確保することにより、タイの山岳民族の収入向上に寄与する。 | |
プロジェクトの背景 | |
1900年代初め、ベトナム北部で多く栽培されていたけしが、ビルマ、ラオスそしてタイの国境にまで広がりゴールデントライアングルと呼ばれる地域を形成するまでに至った。けしは、この地域に独自の文化をもちながら生活する山岳民族の主な現金収入であり、国連が麻薬追放キャンペーンに本格的に乗り出すまで、ゴールデントライアングルは栄え続けた。1972年、国連は、麻薬追放キャンペーンの一環として、けしに変わる転換作物となりうるコーヒー栽培の導入に本格的に取り組みはじめた。加えて、いくつかの社会経済プロジェクト、ロイヤル高地開発プロジェクト(タイの皇室のプロジェクト)が国連と相互に協力して実施された。コーヒーの研究、開発プログラムに関しては、国連、農業NGOや王室タイ政府の機関により1970年代半ばに開始され、現在ではそれらのプログラムは国立チェンマイ大学農学部「高地コーヒー研究、開発センター」に引き継がれ、その活動を継承している。こうしてアラビカコーヒーの市場は、1980年代から90年にかけて生産高が増加するとともに徐々に広がり、現在では、年間のアラビカコーヒーの生産高は400トンを越えるまでになった。 しかしながら、いくら高品質なコーヒー豆が生産できるようになったとはいえ、力の弱い小規模生産者は、村まで買いつけにくる仲介業者に安い値段で売らざるを得えず、生活に十分な現金収入を確保するのが難しい状態であった。 |
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Lanna cafe の成立 | |
1998年から2000年にかけて、わかちあいプロジェクトはコーヒー生産者組合から12.3トン、さらにチェンマイ大学アラビカコーヒー研究センターから4トン、計16.3トンの生豆を輸入するに至った。 |
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Lanna cafe への愛着 | |
どうしてそんな大胆な決断ができたのだろう。今になっても不思議だ。2000年、9月。 見えないレールに乗っかって将来を進んでしまいそうな自分と向き合っていた。自分の本当にやりたいことに目をつぶって、今までの経歴にこだわってこれからの人生を生きてしまうことが怖かった。十分ストレートに生きてきた。ちょっと回り道をしていろんな世界を見てみるのも悪くない、そんなふとした思いが、1年間休学してタイコーヒープロジェクトにどっぷりと関わってみることを決断させた。 私がやってきた主な活動は簡単に別紙Lanna Cafeの1年にまとめたが、これらの活動の背後は並ならぬ試練の連続であった。なにもかも初めての体験・・・・・何も知らない無知さと無謀さ、この2つかあったゆえなんとか乗りきれたのかもしれない。もちろん忘れてはならないのは、マネージャーであるオランヌさん、わかちあいプロジェクト専属スタッフの中島佳織さんをはじめとする、Lanna cafeのスタッフ、そしてお客さんからのサポートである。これほど多くの人に支えられながら生きた時間はこれまであったであろうか。落ち込んでいるとき、うまく行かない時に、励まし、元気付けてくれた多くの人々には感謝で一杯である。仕事が思うようにいかなくて、自分自信にジレンマ、口惜しさ、自分に対する怒りを感じたことは、何度あったことであろう。そのたびに「絶対逃げない。」と自分に言い聞かせただ必死に時を過ごした。そこで踏ん張れたのも、陰で支えてくれた人々の力に他ならない。 一からのスタート。全て自分達で作り上げてきた。店にある1つ1つのコーヒーカップ、いす、そういった全てのものが愛しくてしょうがない。今日もまたたくさんの人で賑わっているのであろうか?スタッフは元気でやっているだろうか?と気になってしょうがない。今度訪れるときのLanna Cafeの成長ぶりが楽しみである。 最後に、このようなすばらしい機会を与えて下さったかちあいプロジェクト代表、松木傑さん、そして「行動的な娘をもつと自分の世界も広がって面白い。」と、電話一本でタイに行くこと、休学をすることを許可してくれた理解ある両親に心からお礼を言いたい。 |
「ラナカフェプロジェクト」立ち上げから1年を振り返って(2002.1.24) -中島佳織-
2001年1月、全くのゼロから始めたコーヒープロジェクト。物件探し、コーヒー焙煎技術の習得、マーケティング、メニュー開発、すべてが初めてのことで挑戦の連続だった。でもスタートの時点から貫いてきたこと、それは品質管理。とにかく、質のいいもの(それは商品でもサービスでもすべての面で)を提供していく努力を怠らなければ、必ずお客様はついてくれるはずと信じてこれまで邁進してきた。このプロジェクト、ただ資金援助するだけのチャリティ事業ではない。ビジネスとして成功しなければ、そもそもの私たちの活動目的である、山岳少数民族の収入向上、自立支援が実現し得ないのである。
コーヒーの収穫は年に1回のみ。毎年10月頃から収穫が始まり、1月までの4ヶ月間ほどをかけて、収穫から精製をしていく。2001年の生産組合の生産高は約7トン。そのうちランナカフェプロジェクトで2トンを購入した。現在、プロジェクト立上げから1年が経過したところで、2トンのコーヒー豆の完売が間近となり、新しい収穫分の豆を手配中である。まだまだ規模は小さいが、確実に売上も伸びてきており、タイ国内でのコーヒー需要の高まりも相いまって、今後さらに事業規模が拡大していくことが期待される。
2001年5月5日にグランドオープンした「ランナカフェ」正面入り口の最新の様子。垂れ幕上に書かれた宣伝文句は定期的に新しくし、通行者の注目を集められるよう工夫。店は、交通量の多い大通りに面しており、大型ショッピングセンターから数100メートルのところに位置している。現在、お客さんの80%ほどは、欧米人、約15%が日本人、残りの5%がタイ人。立地柄、旅行者の割合は全体の5%にも満たないが、旅行ガイドブックなどに載ったことによって、わざわざうちの店を目指して来てくれる旅行者も出てきている。現在のところ、ほとんどのお客さんがチェンマイ在住の人たちで、常連客である。 | |
店では山岳民族が制作した手工芸品も販売。少数民族の収入向上に貢献できるよう、雑誌にも広告を載せるなどして積極的に販売している。 | |
2001年11月、同時に開始したショップ2号店と3号店。食事を販売する他店と同敷地内で、飲み物販売のみを担当。投資とリスクの少ない運営方法である。写真は3号店。チェンマイ郊外の観光地メーリムにある、「シリキット女王熱帯植物園」内のレストランと契約し、ランナカフェがコーヒーを中心とした飲み物とサンドイッチやデザートなどの軽食を販売している。 | |
3号店の様子。現在、日本の若い女性向けファッション雑誌や観光ガイドブックで「お洒落なアジア雑貨が買える」と注目を浴びているニンマンヘミン通り沿いに店がある。 | |
2001年5月末、バンコクにて「THAIFEX」と呼ばれる大規模食品展に参加。多くの企業と出会い、ここからわたしたちのビジネスが広がっていった。(写真右側はランナカフェスタッフのユン) | |
2001年10月、チェンマイでの大イベントに出店。タイアラビカコーヒーの紹介、フェアトレードのことなどを積極的にアピール。イベント期間中の4日間の売上も大成功だった。(写真左側からマネージャのオラヌ、トゥック、エイン。白い移動式カウンターは、今後のイベント出店用に特注でデザイナーに造ってもらった。約三万円。) | |
2001年12月、チェンマイでの「エイズ国際会議」には、多くのNGOや政府機関が大集合。わたしたちは、無料のコーヒー試飲サービスとともに活動紹介を実施。(写真右側より焙煎担当のポン、日本人スタッフの浦本みずきさん、新スタッフのミー) | |
活動の成果 | |
1年前、私たちがチェンマイで活動を開始した当初は、本格的なコーヒーの飲める喫茶店はチェンマイでは皆無に等しかった。それが、このたった1年間でカフェ大ブームが起こり、今ではあのスターバックスも出店しているほどである。そのブームの火付け役として、私たちランナカフェも多少、貢献していると自認している。コーヒーに関する知識・情報に乏しい喫茶店開業希望者への無料情報提供、山岳民族のコーヒー生産者の現状やフェアトレードの説明などを積極的にすることで、コーヒーの品質や味にだけでなく、活動理念にも賛同し、ランナカフェの豆を購入してくれる喫茶店が多くある。私たちが開業から手助けした喫茶店は約5店舗、チェンマイだけでなくランパン、メーソッドという他の街にも広がっている。そのほか、以前は他社の豆を使っていたが、ランナカフェの豆に切り替えたという喫茶店も含めると、卸し先喫茶店は合計15店舗ほど。そのほぼすべての店が、私たちが作成し無料提供している生産者情報やフェアトレードについての展示物と共に販売しており、消費者への情報発信に努めてくれている。 |
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コーヒー生産者組合に加入している村の一つ、Huay Hawn村の様子 | |
コーヒー豆を機械で精製し、豆の大きさによって等級分けをしたあと、最終チェックで人間の手による選別が不可欠。成長が十分でない欠点豆や石などの不純物が混じらないよう、一粒一粒厳しいチェックをしていく。これが高品質を保つ重要な作業。 | |
コーヒー生産者組合のリーダーたちがランナカフェを訪問。日本から持ってきた焙煎機を使って豆を焙煎する様子を見学。自分たちの栽培したコーヒー豆が、機械によって焼き色がつき変化していく様子に興味津々だった。 | |
店の正面入り口にて、生産者グループとランナカフェスタッフとで記念写真。(写真前列左側よりわかちあいプロジェクト派遣ボランティアスタッフの村山恵理さん、ユン、わかちあいプロジェクトスタッフ中島、マネージャ・オラヌ) | |
2001年11月、コーヒー生産現場の視察、山岳少数民族の生産者との出会いによって、コーヒーおよび生産者への理解を深めてもらい、よりコーヒーに親しんでもらおう、という目的で企画したスタディーツアー。参加者は日本人6人、シンガポール人1人、タイ人1人の計8人。(写真は、コーヒー畑にて、コーヒー栽培の歴史や栽培方法についてスタッフから説明をしているところ) | |
コーヒー生産村で使われているコーヒー精製機を見学するスタディーツアー参加者たち。わかちあいプロジェクトからも過去、数台を寄付。 | |
夜は、私たちスタディーツアー参加者のために、村の生産者グループばかりか、村の村長代理まで集まってくれた。一人ずつの自己紹介や質問などが交わされたあとは、ギターでタイ・日本両国の歌で盛りあがった。 |