わかちあいプロジェクト

キボンド難民キャンプボランティア派遣 報告書

ブルンジの歴史・ブルンジという国

ブルンジの難民

ブルンジでは、内戦により1999年までに約31万人が難民となり、うち29万人がタンザニアに、2万人がコンゴに、そして約1000人がルワンダに避難している。また、約80万人がブルンジ国内で強制移住させられているといわれている。合計110万人の人々、すなわちブルンジ国民の6人に1人が家を追われ、このうち40万人は1999年に新たに難民になったり、強制移住させられたりしている(数字はUNHCRのホームページによる)。

ブルンジという国

ブルンジは赤道の少し南、アフリカ大陸のほぼ中央に位置する小さな国である。北はルワンダ、西はコンゴ民主共和国(旧ザイール)と接し、その東にタンザニアが存する。首都ブジュンブラはケニアの首都ナイロビから約900キロ、また、インド洋に面するタンザニア首都ダルエスサラームからは約1500キロ内陸に入ったところに位置する。

アフリカとはいえ、ブルンジにはジャングルもサバンナもなく、ライオンやキリンや象もいない。国全体が標高1000メートル以上で、2000メートルを超える地域もあり、全体に山がちの国である。この標高のため、平均気温18度、降水量900から1600mmという人間が住むのにちょうどよい気候であり、ルワンダとあわせて、ブルンジはアフリカ大陸の中の「気候的・環境的な島(climatic and ecological island)」であるともいわれる。

このような高地にあるため、ツェツェ蠅や、マラリアを媒介する蚊も少なく、また山地が自然の要塞となって、19世紀のザンジバルを拠点とするムスリムによる奴隷狩りからも免れることができ、白人がやってくるまでは、外部からの侵略を受けることはほとんどなかった。

ブルンジは、ルワンダと同じく、一時期ドイツの支配を受けた後は1962年に独立するまでベルギーの植民地であった。ベルギーによる植民地支配と、カトリックは、ブルンジの文化に様々な影響を残している。

ブルンジでは母国語たるキルンディ語が話されるが、教育・政治はフランス語で行なわれ、ブルンジはアフリカの中の、フランス語圏に属する国のひとつといえる。英語については高校卒業以上の教育を受けたものは解することができる。他、東アフリカで広く話されているスワヒリ語を解する者も英語より多くの割合で存する。

ブルンジはルワンダと双子のような国家であり、同じベルギーの植民地であっただけでなく、民族構成もほとんど同じである。すなわち、人口の圧倒的多数はフツ族(約85%)であり、少数派のツチ族がおり(14%)、さらにごく少数派のトゥワ族(1%)からなる。これらの民族は、昔から同じ地域に入り交じって居住し、平和に暮らしていたとされる。

歴史的には少数派のツチ族がブルンジ・ルワンダの政治や軍事などを担当してきた。これはツチ族が支配者として権勢をふるっていたというよりは、もともとブルンジの伝統的な社会そのものが兵士や軍人に重きをおく「武断政治」のような形態をとっていたからにすぎない。

これに対し、ドイツとベルギーは、この少数派のツチ族による支配を利用・強化し、近代以降ツチ族とフツ族とを、支配者層・被支配者層に分化・固定してしまった。ツチ族はエリートであり、留学をするなどしていわゆる知識人が多かったのに対し、フツ族の知識人は少なく、多くが農民であった。

独立後の小史

独立後、多数派のフツ族が支配権を握ったルワンダと異なり、ブルンジでは30年間にわたる抗争の末、少数のツチ族エリートが政治と軍の実権を握った。1960年代と70年代には、ツチ族とフツ族との衝突が何度か起こり、フツ族住民が何10万人も殺されている。
やがてフツ族の不満の高まりと、国際的な圧力により、選挙によって大統領を選ぶことが認められ、1993年、初のフツ族の大統領としてンダダイエ大統領が民主的選挙によって選出された。これに対し、権力を手放すまいとするツチ族の強硬派は8月20日に大統領を暗殺。この暗殺をきっかけに、60年代、70年代の虐殺の再来を恐れるフツ族がツチ族に対し大規模に反乱すると、ツチ族主体の軍隊はこれに反撃した。フツ族はFDDやFNLといったゲリラを組織して対抗し、何10万もの人々がブルンジ国内外のキャンプに逃れ難民となり、30万人から50万人が虐殺されたといわれる内戦が始まった。

さらに1996年には軍部がクーデターを起こし、ツチ族のピエール=ブヨヤ将軍が大統領となった。ブヨヤ大統領は軍隊を増強し、経済制裁を受けているにもかかわらず軍事費を増やしたため国家は疲弊。フツ族のゲリラはウガンダやコンゴ民主共和国(旧ザイール)に拠点をおいてこれらの国の支援を受けているといわれ、ブルンジにたびたび侵攻し、ツチ族主体の軍とフツ族主体のゲリラによる内戦が現在でも続いている。特に近時は、ゲリラがタンザニア国内の難民キャンプを拠点にしているとブルンジ政府は非難している。

また、ゲリラがフツ族住民が多く住み、首都に近いブジュンブラ=ルーラル地区を中心に活動するようになったため、ブヨヤ大統領は、ゲリラと、これを支援するフツ族住民とを分離させるべく、80万人もの人々を強制的にregroupment camp に移住させた。このキャンプは1998年には閉鎖されたとブルンジ政府は主張している。

今後

1999年末より、偉大なアフリカの指導者ニエレレ氏(タンザニア初代大統領)のあとを継いで、前南アフリカ大統領ネルソン=マンデラ氏が仲介役となって和平合意の実現に向け た努力をしている。8月にはタンザニアのアルーシャで、すべての当事者が集まって和平へ向けた会議が開かれ、クリントン大統領もタンザニアを訪問してい る。しかし、ゲリラ組織の中には、和平会議への参加を拒否するものもあり、ツチ族もフツ族もお互いを非難するばかりで、結局停戦合意には至っていない(2000年11月現在)。